フランシスコ・ザビエルがめがねを伝えてから戦国時代の間日本では「めがね作り」をしていなかったのでしょうか。
これには、1584年頃に長崎で鼈甲細工(べっこうざいく)の名人がいて、その人にめがね枠を作らせ スペインから持参したレンズを入れて徳川家康に献上した、との伝説も伝えられ、これが事実であれば、日本で作られた初めてのメガネフレームといわれるのではないかと思われます。
しかし、記録では、我が国に「めがね」の製法を伝えたのは、1615年頃、長崎の浜田弥兵衛が南蛮に渡来して「めがね」の製作技術を習得(しゅうとく)し日本に伝えたのが最初と言われています。
江戸時代の初期のころ、「めがね」は舶来の大変貴重なものとして重宝されていました。 鎖国政策をとる中で、唯一南蛮との窓口であった、長崎出島のオランダ商館からそれぞれ希望のところに「めがね」は献上されていったようです。全国の諸大名や有力者は、そんな貴重な眼鏡を手に入れるため、裏から長崎に手を回し舶来の品を求めるようになったそうです。当然、たくさんの希望に応じられなくなって、自然に舶来品を模造するようになったようです。
こうして1661年頃には長崎には専門の眼鏡店があったと記録されています。ずいぶん昔からめがね屋さんが存在していたのですね。
また、長崎には寛永年間、1620年頃に石の「眼鏡橋」と呼ばれる橋が、架けられていたそうですから、もうこのころから「めがね」と言うものが長崎ではポピュラーものとして認知されていたのではないでしょうか。
江戸時代、寛永年間(1624年から1643年)徳川綱吉の時代になると、文教政策が浸透し、元禄時代が展開され、各地の眼鏡製作の状況が記録に現れるようになりました。この時代の様々な書物に、京都や大阪での眼鏡の製造に関する記述が多く見受けられるようになりました。これによっていよいよ「めがね」が一般に使われるようになったことが判ります。
また、1713年に書かれた書物には、当時の「めがね」の種類や用途が細かく書かれていて、それによると、近眼鏡(きんがんきょう)、遠眼鏡(えんがんきょう)、虫眼鏡(むしめがね)などが水晶とともに紹介されています。1700年の後半、「めがね」は政治経済文化の中心になった江戸を中心に普及していきました。この頃、世の中では舶来品を珍奇(ちんき)なものとして 珍重(ちんちょう)するようになり、寒暖計、写真機、千里鏡(ぼうえんきょう)、顕微鏡などがもたらされました。当然、この時代、西洋からたくさんの眼鏡がもたらされ、御目鏡所(おんめがねどころ)、御目鏡師(おんめがねし)、と呼ばれる、今で言う「めがね屋さん」にたくさんの舶来品が置かれていたそうです。舶来物のトップとして「めがね」はたいへん貴重品であったことがわかります。
この辺で、江戸時代の眼鏡事情についてのお話を終えたいと思います。
続いて、いよいよ、明治の時代を迎えるわけですが、幕末の頃から明治維新にかけて 急激に欧米文化が日本に入ってくるようになりました。
教育においても、寺子屋教育から学校教育に切り替えられ、その結果、新聞、雑誌、図書類の刊行が盛んになり いよいよ 活字文化が到来しました。そうなると、自然に、印刷技術が発達し、活字が木版から小型化され 文字が小さくなって 「めがね」が必要となり、生活必需品にまで「めがね」の地位が上昇するまでになったのです。やがて、「めがね」が本格的な形で発展し始めたのは、日清戦争(1894年)以降、日露戦争(1904年)の頃からです。
2009年8月17日
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