めがね物語 めがね物語

知っているようで知らないめがねの話 Vol.4

昔の文殊山

昔の文殊山

初代増永

初代増永

福井でめがね作りが始まったのが日露戦争が始まった ちょうど1年後の1905年(明治38年)のことでした。

現在の福井市生野町(しょうのちょう)昔は足羽郡麻生津村と呼ばれていましたが、ちょうど国道八号線から文殊山の中間あたりの 頂上の真下あたりです。この地で、明治4年に豪農として知られた増永家の長男として生まれた増永五左エ門さんは明治20年家督を相続しました。重厚な性格で常に村人から敬愛され、25歳で結婚し幸福な家庭を築いていましたが常に村全体の経済を考えていたそうです。

「昔の福井」といえば冬になるとたくさんの雪が降りました。今でこそ地球温暖化のせいでしょうか真冬の1月でも雪が積もっている風景を見ることが少なくなりましたが、私たちの子供の頃は少なくとも一冬に2~3回はスコップを持って屋根に上がり雪降ろしをしたものです。
このような雪深い福井で、しかも田畑の少ない土地で、これと言った特産物もない中で、満足な生活を送ることはとうてい望むことが出来ませんでした。

五左エ門さんは、ご自分は幸福な家庭生活を送っているけれども 常に村人の暮らし向きの向上を願っていました。
何か生活水準を上げる方法はないだろうか、産業を興せば出稼ぎに行くこともないだろう、と考えていました。後に、五左エ門さんの弟であった、幸八(こうはち)さんが、「麻生津の様な寒村では、とても農業一本では生活が成り立たぬから、冬場の手内職にめがね枠を作らせ、そのうち だんだんと上手になったら専業に切り替えてもよいではないか。いや、子供たちに この技術を仕込めば、大阪でいくらでも引き受けてくれるところがある、これからの日本に教育が普及し、読書をする人が増えれば「めがね」はなくてはならぬものになる、是非「めがね作り」をやってみよう」と、熱心に五左エ門さんを説得しました。明治37年の暮れのことでした。

しかし、なかなか五左エ門さんは承知しませんでした。明治38年になり、前年に始まった日露戦争が日本の勝利続きで大変景気のいい時代でした。五左エ門さんは村の腕利きの大工であった増永末吉さんを口説いて、大阪に連れ出し弟の幸八さんに頼んでめがね職人 米田与八(よねだよはち)さんに めがね枠作りの手ほどきを受けました。その時に、本格的に福井でめがね枠を作るならば与八(よはち)さんに、福井に来てもらわなければならないと考えていました。しかし、この時代めがね製造など山師仕事と思われていました。
「増永が工場を建ててめがね作りを始めるから集まれ」、と言ったところでそう簡単には人が集まるようなものではありませんでした。

それでも根気よく説得したおかげで、ようやく増永1期生と呼ばれる連中が集まり、大阪から与八(よはち)さんと 奥さんと 弟子1人が福井にやってきました。この日が、明治38年(1905年)6月1日でした。

しかし、与八(よはち)さんは、特にめがね作りの名工(めいこう)だったわけではなく、3年を目処に呼び寄せたにもかかわらず、熱心な弟子たちは、半年でめがね作りをマスターしてしまい 弟子たちに教えることがなくなってしまった。 3年の約束が 半年で大阪に帰るわけです。しかし、残された者たちには確かな技術的裏づけがあったわけではなく、優秀な製品と販路の開拓には更なる人物が必要でありました。そこで、名工と呼ばれた豊島松太郎さんを福井に呼び寄せることになりました。

豊島松太郎さんは 東京ではすばらしい腕の持ち主であったようです。とにかく、この豊島松太郎さんのおかげで福井の眼鏡製品は品質面で飛躍的な進歩を遂げたようです。ようやく福井でのめがね作りが始まった頃、めがね製造の先進地である東京では、既に分業がはじまり、メッキの研究や赤銅(しゃくどう)製品が鉄に代わり、また、セルロイド枠も既に明治40年頃から試作されていたようです。

とにかく、豊島松太郎さんが東京仕込みの腕によって 福井に招かれたのは、福井産地にとって大きなプラスとなったことは疑う余地のないことであり、福井のめがね作りがスタートしました。

2009年8月31日