このように短期間ですばらしい商品を作るようになったのは「帳場制度」にあったと言われています。製造に携わるものすべてが一生懸命に作るだけではなく、人真似はしない、自分のものを考える、自分独特のものを創りだす当時の職人気質は道徳的であり、純粋であり、他人の考えを盗まない、もっと立派な、もっと垢抜けしたものを作ろう、などなど寝てもさめてもそのことしか頭になかったと言われています。
こうした職人気質が、今のシエアー96%の眼鏡産地を築いた礎(いしずえ)となったことは間違いないところです。
こうして眼鏡のフレームは増永五左エ門さんによって製造されるようになりましたが、めがねにはレンズが必要になるわけで、このレンズの製造も日本では江戸の時代より作られていましたが、福井では第1次大戦後の大正5年頃、やはり増永幸八さんが生野の清水与右エ門さんのところに時々遊びに訪れ、レンズの製造を薦めたと言われています。大阪から石井何某他1名を福井に連れ帰り、角原の青年7名を集めて「レンズ」の製作に着手しました。これが福井のレンズの始まりです。
もう一つには「眼鏡枠のメッキ」が重要な役割を果たしています。
眼鏡メッキと言えば、増永伍作さんと遠縁にあたる木村菊次郎さんの存在がありました。木村さんは15,6歳で塗装の仕事に就き、19歳から自転車のメッキを始めていました。この頃アメリカから戻った親族から新しい知識を得て、又、資力の援助も受けて独立して2~3年経った大正12年に、増永伍作さんと生野の増永伊左エ門さんの訪問を受け、眼鏡メッキをやらないかと薦められた。元来、こうした新しいものには興味を持つ性格で、今までの経験が生かせるからと、持参された米国製眼鏡枠の金メッキに取り組みました。自転車のような大きなものと違って、眼鏡のメッキはなかなか難しく、やはり大阪から専門家を呼び寄せ直接技術指導を受けました。はじめはなかなかきれいに仕上がらず、だめだと言われていましたが、徐々に技術を上げていき大正14年頃金メッキの方法が確立し、金張り枠が製品化されました。やがて木村さんは増永専門となり、次に出てきたのが牧野信一さんであった。福井のメッキ業ではこの2人が双璧と言われています。
2009年9月28日
福井県鯖江市新横江2-3-4
0778-52-9111
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